未来の浄土宗は、火星に阿弥陀信仰を布教できるか?

前回の記事の続きです。

大学時代、「インド美術」のゼミの夏合宿で、
恩師の一人である S 教授が仰った言葉を、最近よく思い出します。

「私は、どうやって火星で阿弥陀様の教えを布教できるか、考えるんですよ」

真宗門徒だった教授は、阿弥陀如来を信仰していましたが、
当時の私は、その深い信仰心から生まれる発想に
ただただ感嘆していたものです。

阿弥陀如来は、無量寿仏や無量光仏ともいい(成立史は端折ります)
阿弥陀如来の国土である「浄土」は「極楽」とも呼ばれ、
仏教では、善い行いをした人が死後に向かうところ、とされています。
善の行いの質と量によりますが(!)、
悩み苦しみのない世界、と言われます。

実は、チベットも
「密教」の印象が強くて、あまり知られていないかもしれませんが、
煎じ詰めれば、阿弥陀信仰に行き着きます。

長寿を願う阿弥陀如来の成就法(観想や真言の修行法)もあります。

恐らく、このところの世情不安もあって、余計に S 教授の言葉が、
蘇るのでしょうね。

仏教は物理的身体を超えていく

ところで、仏教では、「執着を断つ」よう求められます。
その中には当然「肉体への執着」も含まれています。

これは単に、「物欲をなくす」ということではなく、
(勿論、修行の始めとして、それはとても大切ですが)
修行が進み、特に「空性」を悟る修行に入った修行者たちは、
修行のなかで、自分の肉体が存在しない経験をすることがあるようです。
・・・それがあまりに恐ろしくて、
思わず自分の胸を叩いて「自分、ここにいるよね!」と確認し、
行から出てしまう者もいるほどだとか。

人間の意識は、それほど物理的身体に依っているわけですが、
修行者はそれさえも乗り越えていくことを、求められるのです。

究極的には肉体に囚われない形態のことも、
チベット仏教では説いていますから、
そういった境地(世界)に対応できるように、求められているわけです。

・・・私は、「生体チップ」とは別の生き方の選択を
ここに感じ取っています。

地上に肉体を伴う人類はごく僅かになり、
火星の「雲」に集積されたデータ群としての「人類」が、
共同幻想のような社会を築く世界を呼び寄せるのではなく、
同じように肉体に捉われず(囚われず)、
物質的身体を超えていくのだとしても
それこそ本当に虚空に(カルマも含めて)写されて(融け込んで)
いける方法が、仏教的世界観には、あるのではないかと考えています。
(恐らく、古から伝わる他の教えの中にも、
多くヒントが見いだせることでしょう!)

コの後の世界をどう生きていくのかーーー。

何を大切にし何を捨てていけるのか、を常に吟味し、いつも選択しながら、
生きていくことになるような気がしています。

(感謝! Kohji AsakawaによるPixabayからの画像
   ※ 地球は美しい!