響凱と『山月記』
未だ興奮冷めやらず、です。
・・・なんというか、吾峠先生の初期作品集を読んだ時、
女性だと聞いていたので、
この人はどれほどのものを抱えて、
一体どんな少女時代を送ったのか、と
我が身と引き比べながら考え込んでしまいました。
自分の奥底に凄まじい怨念とか恨みが渦巻いている、
ということを知っているとても冷めた、とても温かな、
(ちょうど炭治郎のような)底抜けに優しい心も
共存している、
その危うい知性と感受性を驚き怪しんだものです。
実は、アニメしかまだ見ていない話なのですが、
私がものすごく共感した鬼が「一人」います。
そして、多分この鬼は、
吾峠先生に最も近かった分身なのだろうな、とも
感じました。
それはーーーー響凱です。
以下、ネタバレあります。ご注意ください。
鼓の技も、
それによって立とうとしていた文筆の才も
徹底的に否定され、
鬼にならざるをえなかった男。
「小生は」が自称の、
ちょっと香ばしすぎる大正青年で、
きっといたよね、こういう人、
いままで山ほどいて山ほど死んでいったよねこういう人、
の一人です。
ですが、私はアニメで彼を見た時、
中島敦の『山月記』を思い出しましたーーー
人と伍することをせず、
ただ己の虚しい才のみに賭けた挙句、
虎に成り果てた男の話です。
中学校の教科書で読んだ時、
「ああ、これは私だ」と感じました。
恐らく、何かの作品によって世に出たいと望んだことのある人なら、
痛いほどわかる心情が縷々述べられていました。
響凱は、幾つも幾つも作品を書いて
編集者に(?)見せていた分、
『山月記』の虎(李徴)よりも誠実だったような気もします。
だからこそ、作品に対する誠実さが
酷く踏みにじられた時、
虎を越えて鬼に、変わらざるをえなかったのかもしれません。
炭治郎が、
踏んでいい原稿なんてない! (意訳です)
と、響凱の原稿攻撃を必死に
(しかし、やがて軽やかに
・・・そのうち素敵な対戦ステップを体得♪)
避けたことで、逆に響凱は
最期に「人として」の心のよすがを得て
滅んでいきました。
そのシーンに心が震えました。
この響凱も私だ、と。
「どこかで見たような」「新鮮味を感じない」「今は受けない」
「このくらいの人ならいくらでもいる」
・・・まあ、こんな言葉で人を斬る人たちは沢山います。
きっとその人たちも、そう言われ続けてきたのでしょうね。
だからと言って、それを他人に言って良いとは思えないけれど。
炭治郎や善逸や伊之助が鬼殺隊に入れたのは、
優れた剣の技能は勿論のことですが、
きっと、たった一人でも(善逸のじいちゃんのように)
「お前はできる」「やればすごい」と言い続けてくれた人がいた
(あるいは、炭治郎のように一度も否定されたことがないかもしれない)
からなのではないかと。
「メンタルが強い」というのは、
「否定されることに強い」、
つまり、他人の否定など意に介さないほど、
しっかりと自分を支える温かな核がある、ということなのでしょう。
誰か一人でも、「あなたは尊い!」と感じ続けてくれる人がいれば、
虎にも鬼にもならずにすむのでしょうね。
吾峠先生も、沢山の否定的な言葉に打ちのめされた時代も
あったのかもしれません。
でも、同時に、
「他の誰もあなたを理解しなくても、私だけはあなたが大好きだ」
と言い続けてくれる人もいたのではないかと思います。
吾峠先生が心の奥底に抱えていた闇は、
パンデミックが地球を襲ったこの時代のために
深められ蓄えられていたのかもしれません。
その闇が、
日本と、日本のアニメやマンガ(manga は英語だそうです!)が
大好きな世界の人々を救い、
疲弊した地球の文化と経済を上向きにしてくれるような気がします。
(感謝! Hans BraxmeierによるPixabayからの画像)